深野和紙(ふかのわし)
【所在地】 三重県飯南郡飯南町  
【主製品】 障子紙


安土桃山時代後期、慶長4年(1599)、深野村の郷士であった野呂市兵衛俊光は深野村が紙漉きの里に適していることを知り、美濃の里より2名の紙漉き職人を招き作間稼ぎとして紙漉きが導入されました。

元禄の頃紙漉きが盛んであったとの文献があり、文政6年(1823)、俊光より七代の後裔で大庄屋職にあった野呂市兵衛俊興が、紀州藩に藩札用紙の製造許可を願い出て銀札御用紙となり、脚光を浴びました。

製品は近在の松阪商人の手で江戸はもとより京大坂までも商われたために、名声を得て販路は拡大し、深野村250戸の内実に200戸が紙漉きで渡世をしていたという記録もあります。
特に紀州藩の銀札は、伊勢飛地松坂銀札と呼ばれたもので、明治初期の藩札廃止に伴なう新円交換の際、多くの藩札胴元が破産に追い込まれ紙きれ同然になっていった中で、松坂銀札はその胴元が現在の三井グループの前身である三井家や、長谷川家、小津家を筆頭とする御為替組であったために、新円切替の際一両が1円の等価で換金され、松坂銀札は一躍有名となりました。
その用紙に採用されていた深野和紙も高品質を買われ、明治4年(1871)、通信省が日本最初の郵便切手を発行した際にも、紙問屋小津清左衛門をとおして切手用紙として採用されました。
国策として原料の三椏を栽培していた跡には今も名残の株が点在しています。

明治年間(1868〜1912)まで最盛期だった深野和紙も、昭和30年代初期には生活の洋風化と機械和紙に押されて激減し、ついに昭和44年最後の2軒も廃業に追い込まれ、漉き屋は1戸もなくなりました。

昭和62年深野和紙保存会が結成され、町のわずかな補助金をもとに、伝統産業であった手漉き和紙の保存が細々ながら行われてきましたが、近年学校教育でかつて深野村の大産業であった深野和紙を郷土学習に取り上げられて町内の小学校3校及び中学校と高校が毎年体験学習を行っているのと、町内外の各団体及び一般の方々にも、郷土の産業であった深野和紙の歴史と紙漉き体験を、会員15名で対応しています。

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