常陸の紙漉きの歴史は古く、天平宝字2年(758)淳仁天皇の代に行なわれた「千巻経並びに金剛般若経」の写経に用いられています。平安時代の後期から約
400年間、常陸北部に勢いを振るった豪族佐竹氏は、山間地帯に多くの紙漉き場をもち、佐竹大方紙(たいほうし)や佐竹杉原紙を漉き出していました。また、文禄
4年(1595)の『小物成目録』に、コウゾ、紙を徴税の対象としていたことが記されています。
その後、西ノ内紙は水戸藩の奨励によって大いに伸展し、水戸藩の経済を支える最も重要な生産活動でした。寛政2年(1790)の記録によると、水戸藩が藩外に売り出した農産物総額
9万9千両余に対し、諸紙類は3万1千両とあり、31.8%を占めていたことになります。 |
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和紙でつくったYシャツ |
しかし、幕末より水戸藩争乱の影響で生産不振となり、明治に入ると西洋紙の導入により需要も減少し、宝永年間
1,663戸あった紙漉き農家も明治31年には881戸に半減しました。
明治34年、内務省令第29号によって西ノ内紙は総選挙時の投票用紙に指定され、全国的に再認識されることになりました。昭和
16年太平洋戦争が起こり、軍事用として落下傘紙、気球原紙に用いられた和紙の需要がさらに多くなり、コウゾ、ミツマタの植え付けも奨励され、和紙製造も盛んになりました。
戦後は、戦災の復興と共に洋紙の生産が上昇し、昭和 20年前後にできた和紙工場はほとんど閉鎖され、紙漉き農家も廃業に至りました。
現在手漉き和紙生産を行なっているのは、山方町の3戸となり、わずかな人々によって伝統が保たれている状態です。 |
西ノ内紙は、ナスコウゾの繊維だけで漉かれていて、他のミツマタ、ガンピなどを混入しないところに特色があります。やや黄褐色ですが、使っては強靭、虫もつかず、保存するのに適した紙と評価され、江戸時代、商家ではこの西ノ内紙を用いて大福帳をつくるのが通例とされていました。また、水戸藩の大事業『大日本史』編纂にあたっても。料紙として西ノ内紙が用いられています。
近年は、新しい感覚での研究が進んで、純楮紙にコンニャク糊を加えるなど、古い伝統に新しい技法を取り入れ、さらに軽く、強靭な、また防水性にも優れた和紙が生産されています。 |
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